本土最南端の佐多岬。
ここから50メートル先にある大輪島(おおわじま)に佐多岬灯台はあります。
明治4年、中国大陸と横浜間を航行する船舶の重要な目標として建設されました。
資材は、島と島を結んだゴンドラで運搬。
しかし、昭和20年の空襲で大破。
現在の灯台は昭和25年に再建されたものです。
船でしかアクセスできないこの灯台。
およそ60年前に行ったことがあるという地元の男性が。
大迫健一さん(67)
「最初に行ったのは小学生の時。
父が商売をしていたので(灯台守に)食べ物を届けに行きました。」
今は無人化されている佐多岬灯台ですが、昭和38年までは灯台守が常駐していました。
岬の東側には、灯台守の官舎が。
周囲に人家ひとつないこの場所に灯台守とその家族は住み、海の安全を守っていたのです。
大迫さん
「柿山さんという方が昭和29年に来て、他に誰もいないので寂しい思いをされたみたい。
もうひと家族いるはずが、(子どもに)学生がいたので学校近くに宿を借りた。
それでひと家族になってしまった。」
佐多岬観光案内所に、生後6か月の子どもと共に長崎からやってきた柿山さんの妻の手記が展示してあります。
[黒潮との戦い十年間~集約管理を目前にして~ 佐多岬 柿山アツ子]より
「ネコの仔1匹来ないような
こんなさびしいところに何年いるのだろうか?
ヨチヨチと歩く何も知らない子供が、
毎日赤いソテツの実を持って遊んでいるうちに、
次の子が生まれ4人家族となりました。」
「この子供もミルクで育てなければならない。
隣部落まで40分、山道を子供を背負ったり歩かせたりして
ミルクを買いに行きました。」
「20才で岬へ来た私、10年間苦労を乗り越えてきた今日、
顔はしわだらけ、本当の年を当てる人は一人もおりません。」
灯台守、そしてその家族が必死に灯し続けた、辺境の地の灯台。
きょうも、大輪島の断崖に立ち大隅海峡の安全を見守り続けています。